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吉井の海外生活万歳!


吉井恒徳(よしい・つねのり)

 1943年大阪生まれ。商社マンとして、北米、シンガポールを経てフィリピンを最後の地として退職。海外駐在20年のキャリアを持つ。
 2003年4月より、日本退職者協会のゼネラルマネージャー(総支配人)となり、フィリピンへ居住者の支援にあたる。








2004年5月23日(第23回)             「心霊手術」パート2



 先週に続き心霊手術の現場立会いを報告します。
我が知り合いの日本人患者さんの名前がよばれ「治療室」にはいりました。この「ヒーラー」さんは49歳のフィリピン人女性で、7歳の時に自分には神からのスピリットがやどわされ、これまで7百万の患者を診ているとのことです。こちらの本屋さんには、「Magic of Gods」という英文の本が売られており、このヒーラーさんも写真入りで紹介されています。

 パンツ1枚のSさんには診察台の上で入念な全身マッサージがほどこされました。気持ちよく寝入るような感じでしたが、そのあと仰向けとなった本人にヒーラーさんが腹部をあちこち触診され、問題となるべき部位に5本の指をそえ開腹作業にとりかかりました。そばには助手の人が薬用液を持って待機しています。脱脂綿にマキュロクロームみたいな液をしたしますが、私にもそれをほぐして手渡すように指示があり、緊張しながら開腹作業をするヒーラーさんに手渡していくのです。

 いよいよかと世紀の手術を腹部の真上から凝視し写真撮影もしましたが、ヒーラーさんの両手にさえぎられ開腹腔の確認はできませんでした。ただ助手が薬用液をだばだばとおなかの中にいれていくのです。一部の液は横からあふれ腹にあてたガーゼ帯に吸い込まれていきます。ライトに照らされたヒーラーさんの額は汗でひかり、時折Sさんに「痛くないか」とか「息を大きく吸い込んではきなさい」との言葉があるだけです。ヒーラーさんの右手が腹部内に入りこみぐるぐるこねたり、ひっぱたりしたあと、トレーのなかに小指大の肉塊がだされました。これは腎臓からでてきた「のう胞」だそうです。また黒々とした液も見せられ、ニコチンが内在していることの説明もありました。

 最後は開腹部位の縫合ですが、両手で部位をあわせるようなしぐさをしていますが両手にさえぎられ私には見えませんでした。「複合部位が赤くなっているだろう。見なさい」といわれ凝視しましたが私にはそのように見えません。摩訶不思議な手術が終わりました。「おなかの中がチクリといたくなるが心配いらない」また術後に注意すべきこととして、重いものは持たない、冷たい水は飲まない、3日間腹部をぬらさない、激辛の食品は食べないなどの指示があり私達は家路につきました。

 3日後にヒーラーさんを訪問のうえ、今度は痔の手術がほどこされました。これにも立会いましたが、部位の検証は御遠慮いたしました。お尻のほうでぐりぐりえぐるような手術ですが、これには御本人も痛いらしくうめきの声をはっしていました。トレーのなかに親指の大きさの肉塊がだされていました。帰国後の御報告でも痔は極めて良好になったとの知らせを受け取っています。腰痛のほうは聞き漏らしてしまいました。

 西洋近代医学しか信用しがたい私には皆様におすすめするものではありませんが、世のなかには確かに不思議なことがあるものです。この心霊医療も「信ずる人」の約7割は何らかの形で快方にむかうそうです。ただ快方にむかうものの根本的な治癒はそのかぎりではないそうですが。




2004年5月15日(第22回)          「心霊手術」 パート1



 最近ロングステーで我が家に来られたSさんの了解をえて体験談をお伝えいたします。Sさんは日本の大学を出られ、事業家として成功され弟さんに経営をまかせ、今後は奥様とセカンドライフを海外、なかんずく相性が合うフィリピンと日本との二重生活を考えておられます。

 団塊の世代ですが、糖尿病、高血圧症、腰痛などで困っておられ、フィリピンには「ヒーラー」と呼ばれる心霊術師がいることを知りこちらに来られました。私はご縁で御案内役をつとめました。この「ヒーラー」さんに面談できるのが大変でして、3度ほど直前に延期されたり、すっぽぬかされたりしました。ようやく秘書を通じ面談ができました。

 もっともその一ヶ月前に、秘書からの依頼でSさんの顔写真、生年月日、住所を事前に手渡していたため、白紙を通しての透視診断書ができていました。アラビア語のようなにょろにょろ文字が並んでいますが、当日の面談時に「ヒーラー」さんの解説では、前立腺肥大であること、血液内のコレステロールが高いこと、昔の喫煙でニコチンがたまっていること、疲れやすいことなどが説明されました。Sさんから糖尿病、腰痛、リュウマチのことも話しをされどうすればよいのかとの質問で、やおらこの「ヒーラー」さんはSさんの裸の上半身に手をあてがったり、紙で透視をされたり、確かに血液中のコレステロールが多いことの指摘あり、体重を減量すること、ストレスをためないことの説明がなされ、日程に余裕があれば手術をおこないましょうとの申し出がありました。

 私達は、この治療室で待っている間に、壁にはっている過去の手術写真を見ていましたが、なにやらわかりませんが、癌患者の内臓摘出部位の写真やら、小腸と思わしき部位などの写真に私は「ウエー」と言う声をあげていました。当日治療室で待っている複数のフィリピン人患者の方々から聞きましたが、知り合いで心臓のバイパス手術を要する方がこの「ヒーラー」さんになおしてもらったり、肺の病気もなおったとか成功例の話しばかりでした。

 かつて日本でのテレビ番組でこの種心霊手術を紹介する番組がありましたが、豚や鳥の臓物とすり替えて使っているなどといんちき、ペテンのたぐいと片付けていたように見受けます。長時間待たされましたがついにSさんの名前が呼ばれました。さて手術立会いの報告は次週おこないます。



2004年4月30日(第21回)        「フィリピンでの車選び」について


 

 私は今、マカティ市の中心地に居住していることから、日常生活で車の必要性をさほど感じていませんでした。
ちょっとした用事ではビレッジ内のサービスカー(タクシーより割高ですがドアー・ツー・ドアーのサービスが受けられる)を利用していました。ワイフと老犬がマカティにきて、生活の大部分はマカティに限定されていましたが、漸く彼らもなれてきたのと、私自身も郊外型スポーツ(ゴルフ)を再開するため、やはり自動車の必要性が出てきました。

 自動車は本来、新車購入が安全で快適なのですが、私の場合高価な新車には予算上、手が出ないこと、リタイアリーへのローン支払いが受け入れられていないこと、新車の減価償却が日本にくらべ大きいこと、交通規則があってないようなこの国では接触事故が多いことなどが理由で、2-3年落ちの中古車を選ぶことにしました。

 フィリピンの英字日刊紙には、日曜日版で中古車売り情報が満載されています。個人の売主や、ディーラー筋が広告をだしています。また「BUY & SALES]というタブロイド紙も売られており、自動車情報に接することができます。街には中古車センターもありますが日本のように信頼がおけるかどうかわかりません。私は日曜日版に目を通しお目当ての車種、年代もの、価格をひろい、相手先に電話するのです。走行距離、カラー、その自動車の運転禁止日(道路混雑緩和策)などを聞き合わせこちらの期待するのとおおよそ合致すると、現物とのご対面、試乗をおこなうことになります。

 いろいろな理由で早く売りたい人は、私の自宅まで車を持ってきて見せてくれます。三つの車にしぼり、最終一つの車に決めました。中国系フィリピン人の持ち主でした。私は車のメカニックに弱いので、知人の日本人修理業者に適宜みてもらうことにしました。購入後、世話になった修理業者の方に再点検してもらい、オイル漏れが見つかったので修理してもらいました。

 なお交通運輸局での所有者名義変更、包括保険の付保などすませ、家内とメードさん、老犬2匹を乗せてドライブです。アセアン諸国に共通して云えますが道路が車の増加に追いつかず各国それぞれ交通規制に知恵を絞っています。ここフィリピンでは交通渋滞は常で、産業活動の妨げになっていますが、抜本的改善が進んでいません。現在、マニラ首都圏で実施されている交通規制の一環として、「カラーコーディング」と称しナンバープレート末尾の数字で平日の一日が朝7時から夜7時まで走れないことになっています。例えば番号が1と2は月曜日が運転禁止、9と0は金曜日が禁止といった具合です。

 私は、駐在員時代はお抱え運転手がいましたが、日曜日のゴルフには自分で運転していました。元来運転は好きなほうで、ワイフの車使用頻度も少ないため今のところ運転手は雇っていません。必要性が増してくれば運転手を雇うつもりです。都会での運転手の給料は7500ペソ(一万五千円)が相場です。ちなみにメードさんの相場は住み込みで3500-4500ペソ(約八千円)です。





2004年3月31日(第20回)       「フィリピンの社会階層」について
 
  フィリピンの社会階層についてはよくA,B,C,D,Eの5段階に分類されます。Eの人たちは、スクワッターと称せられる不法居住者で、最貧困層です。貧困層のD層とこのE層をあわせますと、国民の約60%に及ぶそうです。金持ち層のA,Bと中間層のCとあわせても約40%に過ぎません。

 5人家族で月収5000ペソ(1万円)以下が貧困層と定義づけされていますが、マニラ首都圏マカティ市に居住している私には、貧困層の暮らし向きはテレビ報道や新聞報道で垣間見ることができるだけで実感できません。

 5月には大統領選挙がありますが、一人一票の直接選挙制度で国民はどのような判断で、誰を大統領を選ぶのか興味あるところです。前回のエストラダ前大統領に続きまたもや映画俳優のポー氏が出馬宣言をし、支持率NO,1を得ています。貧困層は「我々の味方」と絶大な支持を表明しています。富裕層や知識層は高校中退で政治経験のない元映画俳優に何ができるのかと冷ややかな目でみているようですが数の力では及びません。

 民間による最近のアンケート調査で興味ある数字がでていました。誰に投票するかという問いに対して、最貧困層では、ポー氏に44%、現職のアロヨ氏に27%、貧困層ではポー氏に36%、アロヨ氏に29%、中間層以上では逆転して、アロヨ氏に30%、元教育長官のロコ氏に24%、ポー氏に23%というものです。

 先日、当地の高級デパート「ルスタンス」で、「お客様カード申込書」を見ました。氏名、住所、国籍、性別などの欄のつぎに、家族の年間収入合計蘭があります。7段階のうちの一つを選択するのですが、その7段階とは、

 年間の家族収入: 
 1、10万ペソ以下(20万円)
 2、10万から20万ペソまで(20万円から40万円)
 3、20万から30万ペソまで(40万円から60万円)
 4,5,6と10万刻みで最上位の7番目は100万ペソ以上(200万円以上)となっていました。

 くどいようですが、上記金額は月収ではなく「年収」です。人口増加率が2.3% 国内経済成長率が4.5%のこの国での賃金収入はいかに低水準であるかここでも窺い知ることができます。

 ただ物価は概ね日本の5分の一ですから、生活レベルの日比比較は単純にできないし、まして人間が感じる「幸せ」を比較することも難しい。日本人リタイアリーは、当面「円」の持つ価値で経済的には比較的豊かな生活が可能であるということです。経済面で老後の心配をせず、精神面でも豊かな気持ちをもつことができれば海外生活は満足のいくものになるでしょう。ともあれ健康に暮らせることが大前提であることは云うまでもありません。




2004年2月25日(第19回)    「大統領選挙とペソ安」について


 5月のフィリピン大統領選挙を前に巷での選挙活動が活発になってきました。今年はアメリカ、ロシアでも大統領選挙の年です。

 私は、1998年に映画俳優上がりの前大統領エストラーダ氏が庶民から絶大な人気を得て地すべり的に圧勝したのを目の当たりにしました。彼は「大衆の味方」を宣言して大統領になったのですが、結果は汚職と腐敗にまみれ、ついにその座から引きずりおろされたのは記憶にあたらしいところです。

 今回の選挙では、またもや人気映画俳優のフェルナンド・ポー氏が立候補し、人気は現職のアロヨ候補を抑えナンバーワンです。けれどもマニラ首都圏の中間層、知識層、経済界は政治経験皆無の同氏に背を向けており、彼の人気が高まれば高まるほど、ペソ安が進行します。1997年のアジア通貨危機直前には1ドル26ペソだったのが、今や史上最安値の56.35ペソです。

 当時1万円を両替すると2700ペソだったのが今や5300ペソです。まことにペソが安くなったものです。

 友人の一人は事態を深刻に捉え、フィリピンもアルゼンチン同様、経済破綻するのではないかと当地銀行での預金を一部、外国に移し変えることを検討しています。けれども知人のデラサール大学院の日本人教授は、「フィリピンの経済ファンダメンタルスは決して悪くない。確かに政情不安が為替市場にも悪影響を及ぼしているが、選挙が終わり、強力なリーダーシップのもと、汚職と腐敗を少なくしていけばこの国は大丈夫である」と述べています。

 私には大した預金もないので他国の銀行へシフトすることなど考える必要がありませんが、この国の将来の発展を期待しているので、条件つきながら前者の悲観的見方より、後者の楽観的見方を支持します。

 フィリピンのテレビの風刺番組でレポーターがポー候補に見立てられた人物に「あなたは経済(Economy)のことがわかっていますか」とインタビューすると、彼は「私はエコノミーは知らない。なぜならいつもファーストクラスに乗っているから」と答えました。この国はこの種の風刺が好きで、大統領候補などはよくそのやり玉にあがります。前回のエストラーダ氏のときは、「エストラーダとかけて、サンミゲールのびんビール(フィリピンの有名ビール)と解く」。その心は「首の上が空っぽ」と辛らつな風刺があったのを思いだします。

 我々、外国人リタイアリーにとって、平和裡に選挙がおわり、ビジョンと規律と尊厳をもち政策運営では専門の力を発揮するような大統領の出現を望むばかりです。さもなければ、実業家のルシオ・タン氏の未来予測どおり1ドル100ペソの世界もそう遠くない時期になるかもしれません。

 ちなみにフィリピンペソの対米ドルのレートは戦後、1949年から15年間は1ドル2ペソの時代が続いていました。丁度日本が1ドル360円の時代が続いていたころです。1ペソが180円の価値があったのが今や2円の価値になってしまいました。時代が変われば、通貨の価値も激変するものです。リタイアリーも生活防衛のためにも経済の勉強が必要です。



2004年2月19日〔第18回)        「マカティ市の賑わい」



 最近、マニラ郊外から友人や、日本からのゲストがフィリピンの都会生活見学のために、私達の住む町、マカティに泊りがけでこられます。

 彼らのお目当ては、アヤラグループがここ3年ほどの間に、急速に都市再開発したグリーンベルトモールやグロリエッタ、ショッピングモールです。特に、グリーンベルトは、ヨーロッパかアメリカ都市の中心街を思わせるような洒落たレストラン、テラスカフェー、イタリアン・ブティックの店が並んでいます。食事の種類も地元フィリピンは言うに及ばず、イタリア、スペイン、日本、中華、タイ、ベトナムとなんでもござれ、レストランの窓から外を見やれば、緑の庭園や池などたたずんだ風情です。

 先日も友人夫婦が、ワインバー「ハバナ」で生演奏をやっているので、ぜひ訪問したいとマカティに泊りがけでやってきました。前調査では、夜の10時半から生バンドが入るとのことでしたが、食事を終え待ちきれず熟年夫婦二組で10時前から行きました。狭い店内はすでに、数組の客で満席、やむなくテラスサイドのテーブルに陣取り、南米の代表的なカクテル、「マルガリータ」を注文。

 このカクテルは、御存知の方も多いと思いますが、竜舌蘭からとるテキーラをベースに、グレープフルーツを絞ったのと、グラスのふちを囲んだ塩を舐めながら頂くのです。一杯が130ペソ(260円)、六本木あたりの粋な店で飲むと、1000円はするでしょう。つまみのイタリアンソーセージをたべながら、わいわいがやがや、そばを通るスペイン風美女を、女房の目線とあわないようににっこり。そうこうするうちに店内からの生バンドに合わせた女性歌手が「ベッサメムーチョ」を官能的に歌いだしました。

 くだんの熟年紳士、ご機嫌で店内に入って行き、なんとこの女性歌手の手招きに応じ、踊りだしたのにはびっくりしました。よほど、気に入ったようで、少年のようにはにかみながら顔を紅潮させて席に戻ってこられました。熟年夫人も若返った旦那を見て、満足そうでした。

 このように、フィリピン、マニラ首都圏にも夜遅くまで安心して洒落た夜を楽しめる場所があります。これからは月に一回ぐらい、都会の風にあたり人生をもっとエンジョイしたいとの言葉でした。

 日本に映るフィリピンのイメージは、海が綺麗な遠隔のリゾート地以外は、貧困層社会やゴミだめ、犯罪事件しか報道されませんので、多くの方は「危険で猥雑な国」としか映らないようです。フィリピンの一面として、確実に健全な中間層が増え、国民所得もあがるにつれこのような都会生活を楽しむ層が増えてきているとの報道を組んでもらいたいものです。

 そうすれば、少しは日本の人たちのフィリピンに対するイメージも変わるのではと内心思っています。


2003年1月7日(第17回)        「老人介護」に思う 



 先日、私が所属する、あるNPOのクリスマスパーティで、会員の一人がマカティの家で面倒をみている母親を連れてこられました。この母親は日本で事故にあい頭蓋骨を骨折した後遺症から、軽い痴呆の症状がみられるようになったそうです。御夫婦が多忙な時は、デイケアセンターなどで面倒を見てもらっていたようですが、園内の人たちとの交わりが少なくなるにつれ症状が悪化。また金銭的にも大きな負担となってきたため、御夫婦は熟慮のうえ母親ふくめ、お子さんたちとも一緒にフィリピン移住を決意されたとのことです。今はメードさんも雇い、この母親をパーティなどにも一緒に連れ出し、積極的に外との交流をもとうとされています。

 私は初めてこのおばあさまと話しができたのですが、思いのほか、明るくはっきりと話をなさり、痴呆の症状があるなどとは、分からないぐらいでした。おそらく、この南国で乾季の昼下がりの芝生の上での開放的なパーティが、さらにこのおばあさまの気持ちをゆったりさせたのでしょう。プールもある個人宅の広い庭で、みんなで楽しく会食したり歓談したりすることは、日本の大都会ではかなり難しいことではないかと、つい思ってしまいました。

 今、日本では介護問題が取り上げられない日がないぐらい、社会的関心事になっています。日本では庶民の手が届かない超高級老人ホーム施設で豪奢に暮らすご老人もいるでしょう。その一方で、低所得者や身寄りの無い老人達が身を寄せる公共介護施設では、就寝中はベッドに手足をしばられたり、動物以下の扱いを受けている老人もいます。夜中に徘徊して手薄のスタッフの手を煩わせないようにとの理由ですが、誠にいたましい限りです。

 さて、フィリピンでは特別擁護老人ホームはほとんどありません。(ルソン島南部に日本人が経営する老人ホームがありますが、極めて不評です)。先般、NHKで介護士を目指すフィリピンの青年達の番組をやっていました。カナダは、今やフィリピン介護士の受け入れ大国となっており、8千人のフィリピン介護士達が働いています。彼らは、750時間のカリキュラムをフィリピンの介護養成学校で受けました。日本の一級ヘルパーが受ける訓練時間の3倍を費やしています。カナダで2年間、就労すると永住権がもらえる特典もあります。

 アロヨ大統領は、訪日の度に有能なフィリピン介護士の受け入れを迫っていますが、やれ日本人の就労機会が減る、治安が悪化する、日本語のできない外国人ヘルパーは危険だとかでいまだに門戸は開放されていません。フィリピン人の特性ともいわれるホスピタリティーに富む気性は、孤独な老人達、病に苦しむ人々に対する介護や看護で、いかんなく発揮され、高い評価を受けるに違いありません。近い将来、日本も門戸を開放されるとの思惑により、すでにフィリピンでは、日本語カリキュラムも備えた介護士養成施設もできているようです。エンタテイナーとして、日本で確固たる地位を築き上げた若いフィリピン人女性ばかりでなく、真に日本社会から敬愛される介護の職業でフィリピン人の評価をあげてもらいたいものです。日本側の英断が待たれます。

 カナダ、アメリカ、ヨーロッパ諸国では、フィリピン人の良い特性に着目し、どんどんケアーギバー(介護士)やナース(看護士)を受け入れています。ホスピタリティーや語学習得能力に富んだフィリピン人介護士や看護士に門戸を開放すれば、今まで恩恵にあずかり得なかった老人達にも、おおきな福祉となるでしょう。フィリピン政府は、頑なな日本政府の対応に、それならばと、ご当地で、日本老人の受け入れ施設を作ろうと動きだしております。ただし、これも箱物だけをつくっても、老人達が真に、老後のライフを快適に、楽しく充実した日々が送れるよう、人間同志の心の通い合いがなければ、失敗するでしょう。

 私の母親は80歳で大腿骨折してからは、お手伝いさんに世話になりながら自宅で生活しておりましたが、息子達に見守られながら92歳で大往生しました。母は永年生活していたところで、家族に見守られながら亡くなったので、とても幸せだったと思います。私は残念ながら母の死に目にあえませんでしたが、海外勤務中の私に代わって金銭的、精神的に母親をささえてくれた兄達に今でも感謝しています。



2003年12月8日(第16回)         「フィリピン生活、その後」



 10月始めに、新横浜から、ワイフと老犬2匹がフィリピンに参り、マニラ首都圏、マカティで家族生活を始めて2ヶ月になります。

 ワイフは日本人で55歳、お犬さんは、シーズー犬の双子兄弟で、犬年齢14歳、人年齢になおすと、72歳になります。日本の家は、社会人になった、2人の息子達に管理方、住まわせています。結婚して、約30年、私の海外、国内での会社員生活を、影に日向に、支えてくれたワイフが、今度は、社会人になった息子達のハウスキーピングにせっせと力をそそいでいる(そそがされている?)のも、彼女の人生にとって、いかがなものかとの思いと、息子達の自主独立を促すためにも、彼女は、エイヤーと旦那のいる、マカティに愛犬2匹を連れてきました。日本での、親子4人での3LDKマンション暮らしは、皆様も御推察どおり、私の書斎やワイフの工芸作業部屋などはおよぶべくもありません。経済大国と呼ばれて久しくなっていますが、都市生活では、地価がいまだに高く、狭い住宅に甘んぜざるをえません。

 今は、首都圏のど真ん中で、一軒屋を借りています。4km四方の、塀に囲まれセキューリティが確立した、緑の多いいわゆるビレッジで、4月から続けている早朝ウオーキングは、継続しています。最も、前の晩、友人達とのお酒がすすみますと、かなりつらいのですが、10周のところを5周ぐらいで終えるときもあります。日の出の6時前に、小公園にいくのですが、あさひを待つように、小鳥達はさえずり、ハイビスカスは、太陽が上がるのにあわせ、周囲の緑に、その赤い花や、ピンクの色をきわだてています。

 顔なじみの、散歩者たちとも、「グッドモーニング」の声をかけあい、健康で楽しい一日の始まりです。適度な汗をかき、家にもどると、ワンちゃんが、私を待っています。ハーネスをかけ、表にでますと、近くの家で飼われている犬たちも女中さんに連れられて、朝の散歩です。犬同士、お互いに「おはよう」とでも言ってるのでしょうか、クンクンと鼻をよせ合っています。途中でウンチもするのですが、しぐさで分かり、紙をお尻の下にあてがい、ビニール袋に始末するのです。こちらの犬のアテンドは、ほとんどがメードさん達の仕事で、ウンチを処理するのとしないのは、半々ぐらいと見受けます。私の、処理を横目で見ていくメードさん達も、徐々にビレッジの美観維持のために、「ウンチ取り」を励行してくれることを期待しています。

 フィリピン人の家主さんたちは、多忙なのか、特に中国系金持ちフィリピン人は、誘拐を恐れているのか、はてまた、犬の散歩は女中の仕事だと決め付けているのか、いずれ真相解明したいと思っています。

 自宅の女中さんは、当初、通いの女性がきてくれていましたが、病気だとかで、欠勤が多く、試用期間中に辞めてもらいました。その後、若干の空白期間がありましたが、お隣の紹介で、住み込みの人にきてもらっています。28歳独身で、ミンダナオの高校出身、両親は他界し、昨年までは、日本人駐在員の家で働いていました。英語もきちんとしゃべり、控えめで、良く働く女性です。世間並みの月、4千ペソ(8千円)の給料です。ワイフも家事の多くから解放され、喜んでいるようです。

 料理が好きなワイフの料理に、私の舌も慣れ親しんでおり、ワイフは日々の料理作りからは、残念ながら解放されません。ところが、元来、料理が好きですから、フィリピンの新しい食材をマーケットで買ってきては、あれやこれや工夫しています。週末には時折スーパーマーケットに一緒にでかけ、本から得た知識を参考に当地の魚を選んだりします。私は、食卓を囲みながら「おいしいね」との言葉で、ワイフの労に応えているだけですが、日本とちがい、台所も広いですから、私自身も、料理に挑戦してみるのも面白いのではと、思う今日この頃です。

 前にお伝えした、ギターの練習ですが、一時帰国で中断したのと、通っていた音楽塾が閉鎖となり、2ヶ月ほどブランクになってしまいました。漸く、前のインストラクターから連絡あり、自宅で週一回の練習を再開しました。クリスマスパーティーでの、お披露目は、どうやら今年は無理ですが、「禁じられた遊び」後半に挑戦中です。

 しばらくブランクになっていたゴルフも、さわやかな季節の今、棒振り開始です。

 寒い日本を離れた、フィリピンでの外国暮らしを多いに楽しんでいます。



2003年10月15日(第15回)      「ペット」のこと



 約一ヶ月間、日本に一時帰国しておりましたので、更新が遅れました。

 今回は、ワイフと老犬2匹を連れて、マニラに戻ってきました。
 日本では、身内の入院手伝い、海外引越しのための作業、友人、知人との再会、故人の墓参り、仕事打ち合わせなどであっという間に時間が過ぎ去りました。

 先人曰く、歳の過ぎるのは早く、40代より50代、さらに50代より60代の方が時間の過ぎ去るのが早いとのこと。私もそれを実感させられています。このまま人生の賞味期限が無為に過ぎていかぬように、そして60代以降の人生を実りあるものにしようと日々考えております。

 さて、日本は経済的に豊かとなり、その象徴として、ペットブームが到来しています。犬、猫で1600万匹、2.8世帯に1匹が飼われています。海外での暮らしを目指す人で、ペット(おもに犬、猫)を連れてこようとする方も散見されますが、私達のケースが参考になればと、規則を含めお知らせします。

 我が家では、25年前から、愛玩犬を飼い始め、今の「シーズー犬」2匹は二代目です。兄弟犬で今年14歳。人間年齢では、72歳にあたるそうです。彼らはロスアンゼルス生まれで、愛犬家から「面倒を見て欲しい」と預かったのがきっかけで我が家の一員となり、日本で7年過ごしたあと今回フィリピンに連れて参りました。ワイフにとってこの2匹の犬は、息子達や私以上にかわいいようです。犬の歳が歳だけにいわゆる「ペットロス」を心配しますが、大往生するまで親身に世話をしてやれば、ワイフも納得がいくのではと思っています。

 JALでは、小型犬で一定サイズのケージにキープできれば、乗客一人当たり一匹、客室に同乗させることができます。ケージサイズは縦、横、高さの合計が115cm未満ですが、8kg程度の犬なら充分入ることができます。大型犬は、貨物室での搬送となります。航空会社は犬連れの乗客があった場合には、席のアレンジなど、事前の準備が必要とのことで、早い時期に航空会社にその旨を通知をしておくことが肝心です。

 日本を出国しフィリピンへ連れてくるのに日本で用意しておくべき書類は、
  1.「狂犬病予防接種証明書」、
  2.「犬ジステンバー予防など5種混合予防注射証明書」、
  3.「健康診断書」、
  4.成田飛行場、動物検疫所にて、農水省発行の「輸出検疫証明証」。
 また、事前に、フィリピンケソン市所在の動物輸出入局にて「輸入許可証」を入手して、これを持参する必要があります。
 そして、マニラ到着し通関の後、貨物引取場の一角にある動物検疫所にて「動物輸入検疫確認証」を発給してもらえば手続きは完了です。

 ちなみに犬様の航空運賃ですが、我が家のシーズー犬は、一匹、9kgの重量について、1万8千円でした。やはり荷物扱いですね。
 「シーズー」は一般に大変おとなしい犬なのですが、我が家の愛犬たちは、狭いケージに入れられストレスが溜まったのか、何度も外に出ようとし、それを阻止せんとする乗務員とのやりとりで、今回の4時間のフライトはひときわ長く感じられました。おかげで、普段ならワインの一杯もいただくところ、今回はそれどころではありませんでした。
 当日のフライトは、随分空席がありましたが、他に乗客もいるため、前方に座っていたワイフも犬のご機嫌取りに苦労していたようです。

 新しい家と新しい気候に慣れるよう、愛犬たちも健気にがんばっております。彼らにとっても、フィリピン、マカティでの新しい生活が、幸せであることを祈っています。



2003年9月2日(第14回)        「使用人」について



 私の住まいは、前回申しましたように、ビレッジ(マカティ市サンロレンソ住宅地)の戸建で、隣家には、83歳の老婦人オーナーがいます。彼女の好意で、自宅で働いている、メードさん、2人の内、一人を週3回、パートで寄こしてくれています。

 現在、私は単身で食事も外食多く、メードさんの仕事は洗濯、掃除が主ですから、パートで用がたりています。一回、2-3時間程度で、月に1500ペソ(3300円)あげています。ちなみに、住み込みのメードさんの相場は、月3000−5000ペソ(6600-11000円)で、料理ができるかできないか、日本人家庭かフィリピン人家庭で働くかどうかで、給料がこの範囲内で決まるようです。ワイフがきて、フルタイムのメードさんを雇うまでの短期ですので、今の条件で良しとしています。

 彼女は、南のレイテ島から昨年マニラにきて、隣家で働いています。私は、日中は家にいませんので、このメードさんと会話らしい会話はできていないため、彼女の素姓はわかりませんが、英語の読み,書きがきちんとできる20歳位の女性です。

 隣家のおばーさまは、高齢の為か、耳が遠く、家屋の不具合を修理するよう口頭で頼むと、聞こえているのかどうか、定かでなく、たいがいは「はあー」と語尾があがる英語の返事で、話しがかみあいません。もっとも、彼女にとって都合の良い話は良く聞こえるようです。御本人の体調がすぐれない時には、くだんの英語がしゃべれる、メードさんを私にさしむけます。間違って伝わらないように、書面と口頭にて、改善要求を伝えることにしています。

 先般、ある用事で、日曜日の午後の指定時間に、我が家に来ることを、このメードさんは約束していたのですが、当日、その時間を過ぎても一向に来る気配無く、結局その日は来ませんでした。翌日、メモで「約束した以上は守らなければならない。なにかの都合でこれなければ、その旨事前に相手に伝えるべし」と書き記しておきました。夜、帰宅しますと、彼女からのメモ用紙がおいてありました。直訳しますと「約束を守ることができなくて、本当に、本当に申し訳ありません。昨日、日曜日の正午に、ちょいと昼寝をしまして、はっと気づいて起きたら、午後3時半。約束の時間は過ぎており、あいにく当日は、停電だったので、そのままにしてしまいました。過ちをおかしたことで、本当にすみません。お許しください。」と。

 通説では、フィリピンの人たちは、自分に非があっても、「I am sorry」 とは云わないようです。使用人の場合も同様であって、あれやこれや、弁解をならべたて、しまいには日本人の奥様達を不愉快にさせてしまいます。現役時代の私も、会社の運転手を何人も使いましたが、自分の非を認め、謝ろうとする運転手はほとんどいなかったと記憶しています。不愉快な思いもいたしました。ひとことすみませんと謝ってくれればそれで済む問題なのでしょうが。「I am sorry」といわない理由については、植民地時代のDNAがうけつがれた為か、非を認めると、「自分の立場が悪くなり解雇されるか、待遇が悪くなる」との懸念をもつからだといわれています。ものの性質は違いますが、車の衝突事故などでは、特に「I am sorry」が出てこないのが通り相場です。

 一方、日本人は必要以上に、「すみません」が多いと思いますが、文化比較してみるのも面白いと思います。車社会のアメリカ在勤時代、自動車事故の現場で見聞しましたが、米人同士が「I am sorry」などは、もってのほかの態で、つかみかからんばかりに相手の非を云いあっていました。狩猟民族の西欧人は、自己主張を前面にだしていくことで部族、民族の発展をとげてきたのに対し、農耕民族の日本人は、「集団の和」を第一義にすることで生計をたて、「自己主張」を控える体質が埋め込まれたのではなかろうかと推察します。ただ年配者でも「NOと云える日本人」の著者で都知事の石原氏などは、きちんと自己主張ができる日本人で一定の人気を都民から得ているようですが、いまだ「和をもって尊し」とする調整型政治家が多いのも日本の特徴かもしれません。

 フィリピン人の「素直に謝らない」体質はどこからきたのでしょうか。アジアの農耕民族の流れを汲んでいるのがフィリピン人と了解していましたが、やはり植民地時代の名残がDNAに作用したのでしょうか。

 このメードさんの、通説とは違った「謝りの表明」で、私の心は一気になごみ、メモで「あなたは正直だから、神さまもお許しくださるでしょう。今後は、きちんと約束は守るように」と返しておきました。今回のケースは、私に心地よい感動すらあたえてくれました。


2003年8月25日(第13回)     「自動車免許証更新と警察官」について



 先日、フィリピンの自動車免許証、更新のため、マカティ市の交通運輸局に出向きました。現役時代に取得していた免許証の3年ぶりの更新です。この種の役所関連業務は、地元の人間同伴のほうが、何かと便利であるため、運転手を連れての手続きとなりました。驚いたことに、事務処理は、コンピューター導入のため、比較的、スムースに流れていました。また、麻薬撲滅に躍起となっているこの国では、発給に際してドラッグ検査と称し、尿検査を実行しています。費用は300ペソ(660円)。もちろん、私はネガティブ(陰性)でした。

 問題だったのは、私の車がレッカー移動されたことです。運輸局の駐車場が手狭で駐車待ちの車の行列だったため、我が運転手も他に習い、私を先に下ろして、100m先の路上に駐車していたのです。更新手続き中、車を見に行った彼は、戻ってくるなり「持っていかれたようだ」と青い顔で事実を伝えにきました。さらに、車の引き戻しに1500ペソ程度(3300円)かかるとのことでした。
 
 もともと来客用の駐車場スペースが、手狭で、かつ近所にも、適切な駐車場所がないために、やむなく路上駐車しているのですが、こちらの落ち度もあり、憤懣やる方なしです。「待ってましたとばかりのレッカー車手配は気分が悪い。改善されたし。」と当局の担当者に駐車場の狭さ改善を求めましたが、お昼どきゆえ、その頃にはポツ、ポツ駐車可能なエリアも現れていて、「あなたも短気を起こさず、待っていればこの駐車場にパーキングできたのに、」と気の毒そうに、ひと言。

 現場に行ってみると、次の「被害者」の車が、レッカー車にきわめて手際よくワイヤー掛けされ、牽引されるところでした。日本でも、30分間の違法駐車で、レッカー車に持っていかれた、苦い経験ありましたが、運転手がいてのフィリピンでも同じことをやらかし、学習効果が出ていません。ちなみにマカティ市発行の、領収書には、路上駐車罰金、500ペソ、牽引代 700ペソ 計 1200ペソ(2600円)の支払いでありました。高い免許証更新となりましたが、日本での、違法駐車、牽引代は、たしか28,000円も支払わされましたから、やはりフィリピンの生活コスト(?)はかなり安いといえましょう。

 さて、本題の方の運転免許証の更新は、わずか2時間半で終了し、更新料はたったの260ペソ(560円)でしたが、駐車料金が高いものについてしまいました。

 上記に関連して、フィリピンの警察官について、感じることを述べます。当地の警察官の月給は、7,000ペソ(15,500円)ほどと云われています。これで、家族4人が生活するのは、大変だと思います。従って、月末など、いわゆる「ネズミ捕り」が横行し、軽度の交通違反には、正式の罰金を課せず、運転者との個別交渉で額を設定、そのお金は、国庫に入らず、彼のポケットにはいり、家計の足しとなる次第。

 私も現役時代、左折禁止を知らずに左折したところ、ポリスに捕まりました。禁止標識がきちんと見えないではないか」と随分、食い下がりましたが、結局、免許証の提示を求められ、チケットを切られかけました。正式の手続きでは、本人が警察署に足をはこび、罰金支払いに半日以上はかかるので「示談」に持ち込むのが賢明、と事情通から聞いていたものですから、それを確かめてみたいという興味もあり、150ペソを免許証にはさみ、くだんのポリスに渡してみました。

 フィリピン人によると、この種のケースでは100-150ペソで決着するとのことでしたが、私の免許証を見るなり「あんた、日本人ね」と、にちゃっと笑みをよこされ、150ペソでは決着がつかず、外人特別価格、250ペソにて示談成立とあいなりました。よって、この裏取引が通る国であることがわかりました。模範的市民とは法令遵守を旨とすべし。よって、かかる悪しき行為はしてはならないと思いつつ、興味半分、時間セーブ半日ということで、結局、警察官の家計を援助してしまった次第です。

 その他、警察官のアルバイト?としては、空港からホテルへなど、パトカーによる有料先導や、銃の横流しなどがあります。同様に、移民局職員なども、不正ビザの発行や延長、ささいなことで逮捕して、多額の保釈金を要求するなど、職権乱用や汚職の種は尽きません。好ましからざる日本の「その筋の人達」にも、金の威力にまかせ、法の遵守に勤しむべき公務員をたぶらかす輩もいるようです。

 国家財政の逼迫、公務員の薄給、汚職、賄賂の横行、治安への不安、インフラ整備の不足、外国投資の低調、経済の伸び悩み、税収の恒常的不足、と「負」の連鎖が、この国の発展を阻害しています。大統領の年俸が60万ペソ、月給にして5万ペソ(11万円)ですから、一般公務員の給料は、たかがしれています。一方、私が居住する高級ビレッジには、5-6寝室もある豪邸に、自動車展示場かと錯覚させるようなアメリカ、ドイツ、日本の高級車を6台もガレージに保有している人たちがいるのも事実。散歩の度、この現実は一体、なんなのかと、首を傾げざるをえません。

 市内の高級マンションや、郊外の豪奢な一戸建が、経済低迷にかかわらず、結構売れていくのですから、所得の二極分化が激しい国といえます。我が住宅地の掲示板に、時折「ストリートチルドレンを助けるバザー開催」など掲示されているのは、お金持ち御婦人方のささやかな富の還元なのでしょうか。ウォーキングで金持ち連中の顔見知りもできてきましたので、一度、彼らをお茶にでも招いて、御意見を伺いたいと思っています。

 今回はフィリピンの「負」の部分に言及しましたが、まあ、危ないところを出歩かず、普通の生活をしていれば、問題が起きることはありません。御心配なく。

2003年8月12日(第12回)     「マニラ近郊の温泉地」について


 先週、日曜日 当社顧問コステス氏らと、久々の晴天下、マニラ郊外の温泉リゾート、ロスバニョスに行ってきました。
 マカティから、南へ70km。この日は渋滞も全くないサウススーパーハイウェー経由、1時間で目的のリゾート温泉に到着。

 私自身、「リゾート温泉」と聞き及び、どのようなものか、日本のように、旅館の中に、しっかりした温泉風呂があり、かつ伊豆の温泉郷で味わえる、ひなびた感じの露天風呂などがあるのではとの淡い期待もあったのですが、ここは南国フィリピンでした。8つの温泉プールや、バブルプール、水流すべり台(ウォータースライダーというのでしょうか)、回流プールなどがあり、レストラン、バーベキュー設備、休憩小屋、それに、高台には10室の宿泊施設が備わっています。

 当日は、一週間にもわたる、ぐずついた梅雨の天気から、うって変わって,真夏日にめぐまれ、十数組の家族ずれの人たちで、盛況でした。あちこちから、小さな子供達の嬌声や、青少年達のプール内でのおふざけなどで、活気にあふれた園内でした。何故か、若い女性は水着の上に、Tシャツを着ているのが、ご当地の流行なのか、淑女の礼儀なのか、物知りの方に、聞いてみようと思います。ちなみに、入園料は大人一人、240ペソ(約500円)。

 日本人駐在員への、質問で日本に帰国したら先ず、どこへ行きたいかの質問には、「温泉」でゆっくり身体を癒したいというのが、ベストワンだったと記憶します。事実、私も、過去海外駐在から帰国するたびに、「温泉」に行きたいというのが、当時の思いでした。現役時代、帰国すれば、休暇もなんのその、満員電車に乗っかり、会社へあたふたと仕事始めに出かけ、「日本の現実」に直面していました。

 日本人のDNAには、この「温泉郷愁シンドローム」がしみこんでいるようです。今年の春、日本滞在時、三番目の兄と、車の二人旅で、伊豆の温泉地帯、修善寺、中伊豆、西伊豆の旅館、民宿めぐりを多いに楽しんできました。早朝に水揚げされた、身がひきしまった「はまち」、「たい」に舌鼓をうち、おいしい地酒をいただけることに、日本にいる、しあわせをしみじみと、かみ締めた次第です。

 この街道沿いには、沢山の「リゾートハウス」「ホットスパー」なる看板が目につく、マニラ郊外の温泉地帯です。休火山の標高、1090Mの、マキリン山のふもとに位置しています。2km先では、ラグナ湖に面する、別のリゾート施設も訪れ、プール横の中庭で昼食をいただきました。これといった特色のない、このリゾート施設は、二組の家族づれで、静けさを保っていました。

 マキリン山をさらに、あがっていくと広大なキャンパスを持つ、フィリピン国立大学農学部があります。アメリカ、コーネル大学のキャンパスを模したとのことですが、見晴台からは、ラグナ湖が一望できます。全国から厳しい試験に合格した、若者達がキャンパスを散策している昼下がりの光景は、東京の過密都市では、見られません。

 近代的農業には、いまだ遠いといわれる、このフィリピンで、これら若者達が、切り開いてくれる新しい農業、林業に多いに期待したいものです。マルコスファミリーの、海外隠し財産が、スイスで、約800億円隠匿されており、フィリピン政府に返還することが、スイス最高裁で決定されました。フィリピン政府は、このうち8割を農地改革にあてる計画だというのが、最近のニュースにでていました。どのような改革をめざしているのか、分かりませんが、一部大地主だけの、農地でなく多くの貧困農民が土地の所有にあずかり、生活の糧が充分に得られるような、金の使い方が必要だと思います。「汚職」と「腐敗」にくわえ、この「貧困」が国の発展を阻害させている、大きな原因だと理解しています。

 半日の、マニラ近郊めぐりでしたが、緑の多い山、広大な湖、温泉地、大学キャンパス訪問と、普段、味わえない、フィリピンの景色と空気を楽しむことが出来ました。ゴルフばかりが、楽しみでありません。都会にはないフィリピンの良さに改めて魅了された次第です。

            温泉の写真はこちらです。http://www.asahi.ph/retirees/onsen.htm


2003年8月4日(第11回)         「マニラの公共料金」について


 7月に、マカティ市内の戸建にうつり、電気、水道、ガス、電話の請求書を隣家の家主から、頂きました。家族の来比を待つ単身者でして、月から土曜日の平日は、オフィス勤務、週末はほとんど、外出しているので、家を構える平均生活者としての経費の参考になるかどうか、わかりませんが、一つの目安として、参考までにお知らせします。

 電気代 1800ペソ(約4千円)。就寝中のエアコンは風邪のもとなので、寝る前、1時間ぐらいと就寝中、蒸し暑く起きたときにかけるぐらい。扇風機は天井に向け、廻しています。 フィリピンの電力代は、アジアでは日本に次いで、高いと聞いています。秋に家内や座敷犬2匹が来ますと、日本の電気代と同様、電力会社への貢献度がぐーんと増えるのは間違いありません。

 確か日本の我が家では、春、秋の料金は1万円以内で収まるのが、夏場の電気代は3万円近くまで、はねあがっていました。マカティの知り合いのお宅では、やはり1万ペソ(約23000円)は掛かっているようです。もっとも、別の知り合いは、日本の昭和30年代よろしく、自然尊重派で、自宅ではエアコンは一切使わない主義です。先日、台風の影響で、マカティ市内も夜の11時まで、約10時間ぐらい停電になりました。1980年代後半、90年代初めのころは、長時間停電が多かったそうで、市民生活にも相当不便をあたえていたようです。ラモス政権時代の電力供給改善政策により、めっきり停電は少なくなったとのことです。

 現代の都会人は、電気は空気と同様、当然のごとく存在するのだと、思いがちですが、いざ半日も停電となると、冷蔵庫の生鮮食品の心配をはじめ、大層な不便と、不安を感じるものです。お互いに、節電には心を配り、資源の無駄使いをなくす様、心掛けたいものです。

 水道代、200ペソ。現在、家での料理は皆無に近く(10月に家内が来るまでと、料理器具を揃えるのを怠っているため)、毎日、自分が使用するシャワーや、女中さんによる洗濯、植木への水やりぐらい。マニラ首都圏の水の供給方法は地域により異なります。我がビレッジ内には、水道が敷設されています。しかし、飲料水としては、外国人の多くはボトル入りミネラルウォーターを買って飲んでいます。家庭に配達してくれるその飲料水は一瓶あたり50ペソです。首都圏でも、地域によっては、水道設備が老朽化し、使用に耐えず、タンクローリー車で、売水する業者が各家庭を訪問するところもあります。

 ガス代 350ペソ。 都市ガスはなく、11KGシリンダー入りガスボンベ購入。2−3ヶ月もつそうです。

 電話代 1800ペソ。 基本料金(レンタル代)700ぺソ。プラス 国際電話、市外電話代。地上電話から携帯電話にかけると、割高になるシステム。国際電話1分かけて、21ペソ(安過ぎて電話局の計算間違いではないかという人もいらっしゃいますが、後日、訂正請求書がくれば、報告いたします)。マニラ在の携帯所持者に、3分かけて37ペソ。日本では、携帯電話を持つ必要がないが、ここフィリピンでは公衆電話が少なく、車で遠出の時に、交通渋滞にまきこまれたりすると、連絡を取り合うのに威力を発揮します。フィリピンでは地上電話敷設には、相当の時間を待たされる由で、プリペイドカードや文字メールの普及(一定の件数がフリーとなる)で飛躍的に携帯電話の利用者が増えています。

 最近、我がオフィスでは、インターネットを媒体とした、無料電話(国際、国内)がかけられる方式の採用に成功し、いろめきたっております。オフィス、家庭とも、ますます地球は小さくなるようです。

 消費者物価については、後日御報告したいと思いますが、大雑把に云って、日本の4分の一から、5分の一ぐらいといえます。日本の平均的な厚生年金受給者(17万円ー22万円、 ペソ換算では、7万5千ー10万ペソ)には、日本の都会暮らしでは、汲々とした生活を余儀なくされますが、ここでは、経済的にも比較的豊かな生活が送れるに違いありません。

 「円」の力と、皆様の「外国暮らしを楽しんでやろうという心意気、活力」とでフィリピンでの、第二の楽しい人生に挑戦されてはいかがでしょうか。 喜んで、お手伝いいたします。

2003年7月28日(第10回)      「日比両国の国民性」について

 屋良氏が会長職をしている「日比ビジネスクラブ」月例講演会で、フィリピン国立大学(UP)教授(日本・アジア研究)マヒオ氏が掲題のような内容にて、講演されました。同氏は、日本政府文部省(現、文部科学省)や、民間企業奨学金にて、上智大学で日本語、日本文化を、また、東京大学大学院で、国際関係を専攻されました。20年近く、日本にも滞在された親日の学者で、当日は流暢な日本語で60人もの聴衆をひきつけ、各位からの質問に対しても、丁寧に御自身の考え方を述べておられたのが印象的でした。

 日本人とフィリピン人との国民性をその歴史と文化側面から次のようにまとめています。

【類似点】
 義理人情に篤いこと、 恥の文化を持っていること、 体面を重んじること、人付き合いを大事にすることです。

【相違点】
 ◎日本人は責任感が強い。
           一方、フィリピン人は責任感より、権利の意識が強い。
 ◎日本人は、仕事、会社一辺倒で家族をかえりみない。
           フィリピン人は家族を第一義においている。
 ◎日本人は 物事に対し正確であるし、相手にも正確さをもとめる。
           フィリピン人は、簡単に大丈夫、大丈夫と云ってしまう
                        (結果、失敗すること多く、反省をしない)。

 ◎日本人はせっかちである、今日出来ることは、明日にのばさない。
           フィリピン人はゆっくりである。
 ◎日本人は生真面目である。
           フィリピン人は冗談が好きで人生を楽しんでいる。
 ◎日本人はチームプレーが得意である。
           フィリピン人は個人意識が強い。
と云ったことなどをあげておられました。

 さて、フィリピンはよく、アジアのラテン国と揶揄されます。私はラテン諸国で過ごしたことは、ありませんが、聞きかじるラテン諸国の人たちの気性を言い表していると思います。ジャーナリストの蔦信彦氏は、「これから10年の生き方」の著書で、人生の豊かさをどう作り出すかの問いに、したたかな国イタリアの人たちの生き方をとりいれてはどうかと、提案しています。1にサッカー、2に会話、3に恋愛、4に食事、5に母親。日本人の好む「仕事」や「社会貢献」などはどこ吹く風と言ったところです。くそまじめな日本人は、「そんなことを云っておったら、会社はつぶれ、国は破綻する」と眉を逆立てるのかもしれません。

 戦後、急速な経済成長を果たした日本、韓国はアメリカの軍事肩代わりによる、自国経済インフラへの投資、勤勉性、教育、経済偏重化政策の数々により国民所得のアップに成功しており、また経済成長を達成しつつある中進国、シンガポール、マレーシア、中国などは、ルックイースト政策で着実に国民所得を増加させています。

 フィリピンは、第二次大戦後は、アジアのなかでも、経済活動が最も活発な国で、日本企業駐在員が、赴任するにあたり、誇りとする国であった由です。戦勝国、アメリカの良き同胞国として、多額の援助を受けていたのも原因でしょう。

 その頃のフィリピンには、国の将来を真剣に考え、悩んだ政治家、例えば、マグサイサイ大統領が居たと記憶します。しかし、マルコス政治後半以降には、汚職と、腐敗にむしばまれたトップから平までのもろもろの政治家、役人が出現しています。

 そして、1980年代後半からは、残念ながら、清廉潔癖で有能な政治家が輩出せず、公職につく人たちも政治家の悪しき部分を当然のごとく継承する悪循環が続いています。早急にこの悪しき部分を断ち切らないと、それこそアジアの三等国の地位に甘んぜざるを得なくなるでしょう。

 一方、日本人は、勤勉性、集団性、同族性、のDNAにより、稀なる経済復興、発展をとげましたが、ここにきて、物質文明発展に反比例して、精神の荒廃が起こっています。自殺者は、年間交通事故死を凌ぐ3万人以上とされています。

 フィリピン人、8千万人の人口で、自殺者の総計は知りませんが、ごく僅かであると推測され、恋に破れた青年が、世をはかなんで首をつったという記事は見たことがありますが、生活苦や将来に対する不安や絶望から自殺したという話は聞いたことがありません。大家族のぶら下がり社会のこの南の国では、貧しい人たちでも、着るものはTシャツで事足りますし、食べるものでも、あちこちに生えているバナナやマンゴ、パパイアで空腹をしのげるのかも知れません。

 この明日への危機感が希薄なフィリピンの庶民層が、政治家、官僚の腐敗を糾弾をすることなく、「将来の計画を真剣に考えることなく」、ただただ「日々を凌ぐだけの生活」に甘んじているのではないかと、推測します。それでは残念ながら経済の発展、国家の発展は望めません。自国内経済停滞による職場確保がままならず、諸外国への出稼ぎによる送金が、国民所得の2割弱を構成しています。

 ただ、日比国民の「幸福感」を比べてみた場合、どちらに軍配があがるのか、客観的な質問にも基づくアンケート結果を持ち合わせていませんので、なんとも云えないところであります。私自身は、ある程度の物質文明の恩恵にあずかり、かつ精神的豊かさをもてる国家の国民でいることが一番ではないかと思っております。


2003年7月9日(第9回)       「フィリピンの良さ」について

 私は、縁あって、御当地で、日本からの退職者の方々に対する支援業務を行っています。

 現役のマニラ在勤時代から、週末はゴルフにいそしむ傍ら、当地でリタイア生活を送っている人達とのお付き合いも続けていました。将来の一つの選択肢として、外国暮らし、とりわけフィリピン暮らしを想定していました。マニラに来た経緯については、第三回目のアップでお知らせしましたが、新しいジャンルの仕事と、余暇の有効活用で、第二のライフを楽しく過ごしているところです。

 支援事業では、特別退職者ビザの手配、住居取得の斡旋が、主な業務です。

 前回のアップでも、触れましたが、団塊世代の方々は、昔ほど、海外渡航に対するアレルギーはなくなり、これまでの海外旅行とは違った、手作りの海外滞在(ロングステイ)を行う方々が増えています。ロングステイから、さらに一歩踏み込んだ海外定住や海外移住の人たちも増加しています。

 私自身は、こちらに軸足を移していますが、一年に2回ほどは、日本に戻る、渡り鳥組とも云えるライフをめざしています。今年、9月には、ワイフ(日本人です)をこちらに呼び寄せる予定です。マカティ市内での日常業務のため、当地の交通渋滞事情では、郊外の割安な家屋は対象外としました。また、私達は、犬を2匹飼っており、市内のコンドミニアムでは支障あり、これも断念。セキュリティが良く、環境の良いビレッジの一軒家は、5000万円以上の高額物件ですので、購買には手が届かず、結局1年の賃貸物件がタイミングよく見つかりましたので、これに決めることにしました。とりあえずは、ここをベースにします。

 色々な経歴と、ニーズをお持ちの人たちが、私達のオフィスを訪れ、退職者ビザを取られ、住宅探しをなさいます。会社の紹介パンフレットを、近日中に、東京、大阪、沖縄のフィリピン大使館、領事館に置いて、皆様へのサービスを深めていきたいと考えています。誠実でお客様の側にたったプロのサービスをさせていただきます。話が、仕事の宣伝になってしまいましたが、この国にも、1万人を越える日本人が住んでいます。大半は善良で、良き日本人ですが、なかには「好ましからざる日本人」として、当地の事情不案内の日本人を食い物にする、日本人がいるのも事実です。

 希望と夢を持って、当地にきたにもかかわらず、住宅設営で法外な値段で決めざるをえなくなったり、権利証が手に入らなかったりで、嫌気をさして、短期間で日本へ帰ってしまう方も、います。十二分に注意なさることが、重要です。

 本題とは、かけ離れたしまったようですが、新しいパンフレットに明記していますように、フィリピンの良さは次の8つがあげられます。私自身も、これまでお会いした、中高年の方々もほぼ、同様の見方をしています。

 すなわち、
 1.長期滞在ビザが取りやすい。他国にくらべ、取得条件が厳しくない。
   就労許可証を合わせて取得すれば、健康のた  めに就労も可能です。
 2.生活費が安い。安価で良質なメイド、ドライバー、看護士が雇える。
 3.日本に近い。成田ーマニラ 4時間。便数も豊富。
 4.ホスピタリティに富み、中高年を敬う暖かい国民性である。
 5.気候は、温暖で過ごしやすい。高血圧、成人病に良い。
 6.英語圏で、語学力に富み、簡単な日本語も覚える。
 7.医療サービスに問題ない。日本人医師にも診てもらえる。
 8.預金利子が、いまだ高率。ペソ建て定期、年6−8%。

 が、あげられます。日本はお金を稼ぐには適切な国なのでしょうが、定年退職者や、中高年齢者にとっては、必ずしも優しい国ではありません。「働くことが善」であり「ぶらぶらして、稼がないのは肩身が狭い」お国柄です。

 とは云いましても、我が祖国日本は、四季にめぐまれ、多くの山河、自然、歴史と文化を有す国であります。大橋巨泉のように、カナダ、豪州、日本というほど季節に応じ優雅に廻れませんが、フィリピン、日本をこよなく愛し、軸足を当地におき、行き来したいと、考えている今日この頃です。皆様も、こちらフィリピンにこられ、上に述べました、フィリピンの良いところを心置きなく楽しんでください。喜んでお手伝いいたします。


2003年7月2日(第8回)     「ギター習い始め」 

 今週は、私の新しい趣味をご紹介します。
 
 楽器演奏は、我が家系からみて、どうも得意でないように思えます。小学校時代にもどるのですが、当時、低学年の音楽授業では、楽器としてカスタネット組と、笛組にわかれ、「咲いた、咲いたチューリップが咲いた」などを演奏しました。音楽に鈍感な子は、カスタネット組に入れられました。私は、カスタネット組でした。

 高学年になると、そのころハーモニカがはやっており、親に頼んで、当時としては高価な「宮田東峰のハーモニカ」を買ってもらい、いつも枕元において、寝ていたことを覚えています。枕元に置いていたばかりでなく、友達と一緒に、「春」や、「荒城の月」を吹いていました。その後、楽器からは、すっかり離れてしまい、運動系にはしってしまいました。

 ただ、高校時代には、兄貴の影響で、高山正彦氏が司会する「中南米音楽」のラジオ番組に魅せられ、受験勉強のかたわら、良く耳を傾けていました。そのため、アルゼンチンタンゴを好きになりました。当時、メキシコからは、トリオロスパンチョス、日本では アイジョージ、坂本スミ子などが、ラテン音楽の普及に一役買っていました。アルゼンチンはタンゴばかりでなく、アタワルパユパンキやエドワルドファルーに代表される、民俗音楽(フォルクローレ)にも素晴らしい曲があります。

 アルゼンチンタンゴに欠かせないのが、「バンドネオン」という、アコーデオンに似た楽器です。戦前のドイツで製造されたのが、今でも最高級品とのことです。金額が100万円もするし、ボタンが左右に、34個もある楽器で、これはとても、手に負えないのではと、なかば諦めていました。音楽的才能が、今ひとつであることに加え、日本の狭いマンションでは、隣人への迷惑が気になって、プカプカとやってられないと思ったからです。

 ところが、社会人になった次男が、なぜかタンゴを好きになり、今年始め、なんと、楽器店からバンドネオンをレンタルしてきて、多忙の合間をぬって、2ヶ月ほどで、タンゴ「アメディアルース」(淡き光の題で知られている)を奏でるではありませんか。私は、「親を差し置いて、この・・・」という悔しい気持ちと、「ムム、我が息子ながら、なかなかやるではないか」と羨望の入り交ざった感じを持っていました。

 リタイア後、ご当地マニラで、60の手習いでは、ありませんが、そろそろ、ゴルフ馬鹿を卒業して、ギターを習いたいとの思いが、むくむくと起き上がってきました。これまで、全くといって良いほど、ギターに触ったことなく、ドレミからのスタートです。マカティ市内の楽器屋には、ギターが豊富にならべられてあり、併設して、各種楽器教室もあることが、わかりました。
 
 3週間前に、楽器店で、インストラクターに薦められるまま、4500ペソ(1万円)のクラッシックギターを購入しました。高価なギターでは20万円というのもありましたが、初心者には、これで充分とのことでした。

 翌週から、畳一畳の小さなレッスン部屋で1対1の個人授業を受けることになりました。白板に五線譜をひき、ド、レ、ミ、ファ、と弾くのですが、首は、白板と、ギターの盤面を行ったり、来たり。指に力が入るわで、40分もすると、頭の中が、真っ白くなってきました。先生に、「年寄りの手習いだから、もっとゆっくり、丁寧にやってちょうだい。わたしゃ、ついていけないよ」と、弱音をはきますと、「カモン、ネバー ギブアップ」などと容赦なく指導をします。その日の1時間は、ようやく修了。指をひりひりさせながら、新しいギターを抱いて、ほうほうの体で家路についた次第です。

 それからというもの、夜間や週末にはギターとにらめっこ、ポロリン、ポロリンと大脳刺激に努めています。初回には、指がひりひり痛かったのですが、肩の力(指の力?)がぬけたのでしょう。首の凝りも、ひりひり指もその後、なくなりました。自習の効果か、先生の教え方がうまいのか、先週三回目には、「禁じられた遊び」へ、一足飛びです。コード奏法とかで、右手の人差し指、中指、薬指、でポロロンしながら親指で和音を出すといった「曲芸」に挑戦ということになったのですが、私にとっては、少しテンポが速すぎるのではと、焦っております。

 ある大脳生理学者が、「人間の左脳は、言語、計算、論理的思考の領域をつかさどる一方、右脳は音楽、絵画、芸術の領域をつかさどり、中高年の暮らしを豊かにする」と言っておられたのを思い出しました。このギター演奏が豊かな暮らしの一助になるかどうかは、今後の練習によりますが、ママヨ、乗りかかった船、ネバーギブアップで出航。いつの日か、「禁じられた遊び」は勿論、ラテンの「ある恋の物語」とか、タンゴの「アメディアルース」が、弾けるようになりたいと切に思うのであります。

 因みに、授業料ですが、この音楽教室は、東京ですと、銀座4丁目の一角に位置していますが、入会金なし、12レッスン(週1時間授業x12回、3ヶ月間 3200ペソ(約7200円)。日本に比して、驚くほど安価であります。今春、入手した横浜音楽教室のパンフレットでは、同じ条件で6万円でした。その上、入会金として1万円とられます。日本での教授方法は知らないので比較できませんが、フィリピンの先生は非常に熱心で、一定水準の教授知識ももっています。よって、授業の質に遜色はないでしょう。いかに、このフィリピンでは、我々外国人が、物質的満足ばかりでなく、精神的満足も同時に得ることができるかの、一つの証左と云えます。何かほかのことで、フィリピンに返礼しなければならないと思う次第です。後日、一ヶ月坊主とならず、どこまで上達できたか、ご報告したいと念じています。



20003年6月24日(第7回)   「財」について


ハッピーリタイアメントをおくるには 一定の「財」が必要だと思います。

 「衣食足りて礼節を知る」わけですが、現代日本人にとって、衣食が足りるだけでは、満ち足りたリタイアメント生活を送るのは日本でも、ここフィリピンでも難しい思います。「晴耕雨読」型のリタイアリーの人は、健康であれば、「そんなに、お金はいらないよ。」と、半ば、赤貧をもって良しの、心意気の方もいらっしゃいますが、退職後、老後の心配は、ほとんどがお金に関することである、という調査結果も出ています。あるアンケート結果では、「充分な貯蓄がない」が75%、「年金制度の将来が危うい」が60%になっています。

 平成10年、生命保険センターが試算した、ごく普通の日本での生活でぎりぎりの線が、月額24万円。ゆとりある生活には、38万円必要だそうです。このデータは、意図的に高く見積もったのではないか、保険加入(年金保険など)を促すのが目的ではないかと、云えなくもありません。実際、大方のリタイアリーの人々が、これらの数字をクリアーできるとは、思えません。年金制度改正(改悪)にむけ、政府機関は、年金資金不足のご時世下、世代間の公平化をうたい文句に、支給額を減らしていこうとしています。すでに、団塊世代の全額受給は63-65歳へと移行しています。元会社員は厚生年金や、一部大手企業の場合、企業年金などで、「老後、不安なし」とサラリと、云ってのける幸せな方もいますが、若年になるにつれ、年金制度への不信感が強くなっています。まして、自家営業、自由業の方々で「国民年金」のみの加入者では、月5-6万円での生活は忍びがたいものがあります。

 イソップ物語の、アリとキリギリスの話ではありませんが、現役時代、労働による収入があるときは、退職後に備え、ある程度の貯蓄をしておく必要があります。とは云っても働き盛りの40代、50代前半は子供達の学資、住宅ローン返済に追われ、容易には貯蓄できませんが、知恵ある先人は、「日ごろから倹約を重ね、こつこつ貯める習慣をつけること」と、云っております。私は遅きに失した感がありますが、団塊の世代や若い人々には、伝えておきたいと思います。
 
 一方では、日本の中高年は、結構、金持ちだ、とも云われています。平成12年総理府高齢者白書では、次のような統計が出されていました。65歳以上の世帯主の貯蓄状況。3000万円以上の人が、28%。2100万ー3000万円が、13%。金持ち老人国といわれても、否定できないでしょう。もっとも、1500万円以下の人が48%と半分を占め、300万円以下の人が11%。ここ、フィリピンの統計は知りませんが、一部の超富裕層をのぞけば、比較にならない数字であることは、容易に推察できます。

 一体、60歳時点でどれだけの額があれば、ハッピーリタイアを送るに不安のない数字なのか、これは難しい質問です。個々人の生活様式、ライフプランによって、相当バラツキが出るものと思います。長寿化社会に突入し、年金システムが揺らぎ始めるにつれ、日本では、雑誌、本、メディアがこの種案件をとらえ、注意を喚起すると同時に、無い人の不安を増長させています。 
 
 「団塊」の世代の人たちと話す機会をもちますが、経済面で将来に不安を持っている人が少なからずいます。日本の新聞紙面は、やれ年金の崩壊、財政赤字、リストラと暗い活字が多過ぎます。一定の「財」の有効活用のため、外国、とりわけフィリピン暮らしを志向する方が、着実に増えてきます。フィリピン暮らしを駆り立てる要件は、経済性からばかりでないことは当然です。いわく、外国暮らしで異文化の吸収、外国語(英語)勉強への挑戦をしたい、フィリピン人のホスピタリティが好きだ、リタイアリーに優しい国柄である、トロピカル気候は高血圧など成人病に良い、日本からわずか4時間のフライトで近い、退職者居住ビザ入手へのハードルが低いなどが、挙げられます。これらの要件が複合的に斟酌され、ご当地への訪問者がふえています。皆様のご来訪をお待ちしています。

 日本の国力、「円」の力が、まだ相対的に強い、21世紀初頭は、経済性の要件以外の利点も加えられ、フィリピン訪問の波は高まっていくでしょう。日本は、物質的豊かさを実現したあとにくる、精神的豊かさを、兼ね備えた「ユートピア」を創造して、はじめてわが国の素晴らしさを、外国人諸氏にも喧伝できます。
 
 私の好きなドイツ文学者の中野孝次氏は,「自分は実現出来なかったが、老後の最善の暮らし方の一つは、地方での家庭菜園作りである」と、云っておられます。日本では、グリーンツーリズムとか、都会の一部の定年者に魅力を与えています。動き回れるうちは、外国暮らしで人生を大いにエンジョイし、晩年には、地方で家を構え、菜園作りに、ゆったりした時間を費やすのも良いのでは、と思う時もあります。今は、ここフィリピンで、セカンドライフを仕事、趣味、友人、知人との交友で楽しんでいます。定年の無かったワイフにも、家事、雑事から解放された、実りあるライフを送らせてあげようと準備しています。9月ごろには、愛犬2匹連れて、マニラに来ることになるでしょう。今から楽しみです。
 
 中高年となり、過去のことを、とやかく云っても仕方がありません。メディアにあおられず、甘い利殖話にも乗らず、今あるもので良しとし、物質的欲望はできるだけ小さくして、健康に留意し、精神的豊かさを深めていけばよいと思います
 
 「いつまでも、あると思うな、親と金、無いと思うな、運と災難」、昔の人は、うまく云ったものです。
 

20003年6月17日(第6回)   健康 パート2


 読者の方から、マカティメディカルの人間ドックの検査内容と実態を知りたいとのご要望がありましたので、英語圏病院での診断に参考になればと、詳細をご報告します。

第一日目
 前日午後9時より絶食、当日、朝10時、当院8階にて、エグゼクティブ・チェックアップの登録を行います。個室に移動して後、看護婦による、問診、採血、血圧測定。超音波による肝臓、すい臓、胆嚢チェック。昼食はご飯一膳、野菜煮物、オレンジゼリー。午後、眼科、耳鼻咽喉科検査。以前とは異なり、耳鼻咽喉科では医者、 看護婦とも顔をほとんど接するためか、ものものしくマスクをつけており、異様な感じがしました。午後5時で本日終了。6時に夕食。 明朝5時の検査準備に備え、夕食もシンプル。ご飯一膳、魚白身、野菜煮物。 
 
第二日目
 朝4時半起床。午前の大腸癌検診、結腸、直腸検査のため、スタッフによる大腸内洗浄。この作業で5回もトイレにいくが、これがつらい。7時には、検査室で、内視鏡による検査。検査そのものは3分ですが、長く感じます。各カテゴリーごとに、案内係がつきそい、最寄の検査室やドクターオフィスに行き、タイミングよければ、次の場所へ移動しま す。そうでない場合は、8階の自分の部屋に戻ります。日本の大手総合病院での一日ドックの経験ありませんが、もう少し、手際はよいのかもしれません。8時、肺の検査。9時、バリウムを飲みながらの食道、胃、小腸の検査(ドイツ、シーメンス社製の大型医療器械使用)。10時半、心電図、トレッドミル使用の負荷テスト。担当医師(循環器系)がつきそう。 昼食、ご飯一膳、鳥のささ身、野菜煮物、オレンジゼリー。午後3時、検尿結果に異常ありとのことで、追加のテストを要請され、受ける。超音波による、腎臓、前立腺の検査。

 以上がマカティメディカルの一泊、人間ドック入りのスケジュールでした。

 途中、循環器系のリハビリ・ルームで、2年前に検査した際の理学療法士がおられ、「リタイアしたんですって、おめでとうございます。」の暖かいご挨拶をいただいたのが、印象に残っています。日本だったら、どのようなコメントが返ってくるでしょうか。興味があります。

 私は、マカティ市内の、ビレッジ内に住んでいますが、この一角はセキュリティも良く、街の排気ガスからも逃れ、早朝ウォーキングを50分ほど毎日、実行しています。早朝といっても、気温はすでに25度はありますから、心地よい汗をかくことができます。最近は、ビレッジの住人とも「グッドモーニング」の挨拶をかわして、さわやかな一日の始めとしています。日本の冬でも、ジャンバーを着こんで、ワイフとウォーキングをしていたことがありますが、まさに雲泥の差といえます。小公園のジョギング路は、ハイビスカスとブーゲンビリアが咲き乱れ、南国フィリピンの良さをかみしめています。

 今でも、昔のゴルフ仲間や新しい友人たちから、ゴルフのお誘いを受け、週に一度は、フェアウェイで、汗をながそうかと思っているところです。たまにプレーする卓球も、短時間で、充分な運動量となり、これも楽しいひとときであります。このあとに飲むビールがまた、おいしいのですが、ほどほどにしないと逆効果となります。日本でも、このような事は、「やる気」さえあれば、やれるのでしょうが、手短に実行づらい環境が災いし、なんとなく一日がすぎてしまうことになります。
 
 海外、とりわけ、フィリピンライフ、万歳であります。

2003年6月5日(第5回)  健康について
 
 ハッピーリタイアメントを成功させるためには、いくつか必要なものがあります。そのうちの大きな要素のひとつが「健康」です。

 私は、小学生の頃、小児喘息に悩まされ、上腕にアレルギー体質改善の注射の痕が今でも残っています。陸では、ソフトボール、卓球、相撲、ドッジボール、かん蹴りなどで動き回っていたのですが、季節の変わり目、湿気に弱く、水泳は敬遠していました。いまでこそ泳げるようになりましたが、クロールは息継ぎがへたくそで長く泳げません。

  それがためか、比較的健康問題には関心をを持っており、この15年間の日本、および海外で受けた診断結果はファイルにしています。当初から、人間ドックで心電図検査をうけると心筋肥大、虚血性心疾患の疑いありと診断され、トレッドミル、血流検査を含む精密検査にまわるわけですが、その都度「正常、疑いなし」と大過なくきています。

 日本では、この一日人間ドックは、7-8万円のようですが、今回は二年ぶりに一週間前に、マカティの「マカティメディカルセンター」という総合病院でドック入りしました。基本料金は16,100ペソ(約3万6千円)でした。検査内容、検査機器、スタッフ、医師とも日本に勝るとも劣っていません。いずれ、フィリピンの物価についてお知らせしますが、医療費はこの国の物価水準からしてかなり高いといえます。(もっともこの人間ドックはフィリピンの一部高所得者層対象だからも知れません。一説には歯科治療費は日本にくらべはるかに安いそうです。)
 
 病院玄関口では、サーズの影響のため、身の回り品を調べるガードマンが、マスクをつけていましたし、耳鼻咽喉科のドクター、ナースがマスクをつけていたのには、いささか異様な感じをうけました。フィリピンでは、これまで外国帰りの二人が、感染、死亡しましたが、今は下火になってきており、街は普段と全く変わっていません。

 一週間後の昨日、検査結果を聞きに、担当医(循環器系専門医ですが、総合病院ではこの担当医がいわば、私の家庭医みたいな役目をしてくれます。)を訪問しました。顔なじみになっており、先週、日本語の絵つき医療パンフレットを見せたら、興味をもたれ、英語に翻訳してほしいと要請されました。英語版を持参しましたが、こういうものを我が病院でも作らせたいとのことで、本題の検査結果にはいりました。

 結論から、いいますと、改善すべき箇所は、あれやこれやありましたが、おおむね可でした。 今や、日本は健康番組に満ち溢れています。テレビを見て、「なるほど、」で終わらせずに予防に努めたいものです。とは云いながら、酒、肉、塩の摂り過ぎを止められない成人病予備軍(?)であります

 今回の診断を受けて、新たに、適度な運動と過度の飲食を慎むように、心がけていこうと思っています。重い病気になってからでは遅いという思いがあります。人間が、生きていくことでつらいのは、「病気」「貧乏」「寂しさ」「自分の存在が無いこと」といわれており、最初に避けたいものは、「病気」です。、今後も1年に一回は、検診を受けるつもりです。なにはなくとも、先ず、「健康」でいることが肝要です。

2003年5月29日(第4回)     「ハッピネス」について

 人間だれしも、不幸でいることより幸福を望みます。
 「山のかなたの空遠く幸い住むと人の云う」と、古来より人間は幸せを追い求めてきました。「幸せに思うこと」は人それぞれの価値観によるものだと思います。人というのは、空気が存在することを、感じる機会が少ないと同様、幸せを感じとるのはしょっちゅうではないでしょう。なにげないことで、「ああー幸せだなー」と思うことがあります。
 私の場合は、歳が加わってきたのか、今年の春、日本滞在時、こぶしの芽が出始めたり、吉野桜が咲き始めたころの街路樹を見上げるたびに「幸せだなー」とつい思ってしまいます。これは物欲、金銭欲、出世欲などもろもろの欲望からやや解放された時に美しいもの、命の息吹を感じる時に覚える幸せ感だと思います。と云っても世を捨てた托鉢僧の心境などには到底およびませんし、現代の60代はなかなか枯れるものではないでしょう。
 
 高度経済成長時代、国、企業、個人は物質的豊かさとハッピネスを追い求めました。この時代での等式は、幸福=お金 ÷ 欲望であらわされます。一番幸福な人は、沢山のお金を得、豪華な広い家、高級車、調度品、有り余る家電製品を持ち、健康にめぐまれ、暖かい家庭に恵まれた人といえましょう。この種トリプルAの人たちはごく、限られた人でしょう。
 おおかたの日本人は、「うさぎ小屋」に住み、長期の住宅ローンにしばられた働き蜂となりました。挙句のはてに、「亭主元気で留守が良い」と揶揄され、また定年を迎えると、「濡れ落ち葉」、「粗大ごみ」、「ワシも族」はてまた「下駄裏についたべた雪」とさんざんであります。
 
 奥さんや家族との時間を充分に持たされなかった社会構造の被害者が忽然と家庭に帰還したわけですから、そのように云われるのもむべなるかなです。戦後、経済成長にむけ、一生懸命、組織内人間として働いてきた男性達は、家族を養っていくために社会でさんざんもまれ、、闘い、妥協し一定の収入を得たわけで、退職後こそ妻に老後の面倒をみてもらいたいと思う男性も少なくありません。
 
 日本の中年男性を称して「3K」暗い、汚い、厳しいと云う人がいます。つい最近、マカティ在の、かつて国連で働いていたフィリピン老婦人と話す機会がありました。彼女によると、日本人中年男性はおうおうにして内気で、友好的でなく、非社交的であるとの御宣託でした。周囲の状況から、反論はしませんでしたが、確かに、欧米人にくらべれば、そういわれても否定しがたいところはあります。長い鎖国時代を経て、開国100年余、伝達手段である世界共通語の英語力に欠ける団塊世代前後の我々は、自分の意見を上手くつたえられず、友好的、かつ社交的に振る舞うことは不得意の分野といえましょう。
 ハッピネスという題から離れてきたように思いますが、幸せの一つの捉え方として、人々がどのように考え、どのような価値観を持って生きているか、を日本にとどまらず外国でも勉強できるということは、楽しいことではないかと思います。

 マニラ在職中、親しくしていた「あさひ不動産」屋良会長から、こちらでの仕事の一層の発展にむけ一緒にやりませんか、とのお誘いをうけ今、英語圏であるフィリピンに住んでいます。このチャンスを生かし、現役時代のトップギアーから若干、スローダウンさせながらも、生来の好奇心をふくらませ、人々と交わり、仕事、スポーツ、音楽に挑戦しようと考えています。 そのためには、やはり基盤となる、健康と一定の財が必要です。さらに、暮らしを安定させるハウス、家族(ワイフ)も重要だと思います。

2003年5月23日(第3回)      悠々自適とは

 
私の元会社同僚達とたまに一献かたむけます。今まで会社人間だった彼は、平日の朝には愛犬を散歩に連れて行ったことはありません。退職後、ある日、思い切って犬を連れ出したのですが、(ご本人の気持ちがそのように思わせるのかわかりませんが)、どうもご近所の視線が気になったようで、それ以降は家から少し離れた堤防で、帽子をまぶかにかぶり、散歩に連れて行っているそうです。私達家族も犬を飼っており、ハッピーリタイアーの顔をストレートに出して、散歩に連れ出していましたが、ワイフから逆にたしなめられたことがありました。25年前の米国ビジネスマンのうれしそうな顔が、私に二重写しになったようでした。

 退職すると、「悠々自適の生活をなさってうらやましいかぎりですね」と云われるケースも多いようです。肯定的にとらえますと、「煩わしい俗世間を離れ、のんびりと、気ままに暮らす。」「俗事を離れて思うままに心静かな生活を送ること」ですが、一方、否定的な捉え方では、「なにもしない」、「することがない」、「現役ではない」、「暇、遊んでいる」、「非生産的で役たたず」、とまでこきおろされます。
 この否定的捉え方は日本特有の一種の定年文化ともいうべき隠遁(隠居)生活を示唆するものと考えられます。明治維新、鎖国政策の撤回で西洋の知識、制度をとりいれ、西洋に追いつけ、追い越せの官民の考えが一致し、更に「富国強兵」、「挙国一致」へと国民の勤勉、勤労へと一層の拍車がかかっていったものと理解します。日本人の同一民族性が一致団結の助けとなり、「働かざるものは食うべからず」、戦後の某首相にいたっては「貧乏人は麦飯を食え」と「一生懸命働くことを美徳」とする考え方が日本人の頭のなかに叩き込まれたと思われます。

 家庭を犠牲にしてまで、がむしゃらに働き、80uの小さなマンション購入で30年ものローンを背負い、大量生産、大量消費社会のなかで、次々に投入される家電製品を追っかけ、新しい車を調達、子供達を一流学校にあげるため、小学生時代からの塾通いと、高度経済成長時代の私たちは大なり小なりこのようなライフパターンを日本という国で送ってきました(送らされてきた?)。これにより、物質的豊かさは大方の家庭で一応達成されましたが、反比例して、精神的豊かさは、家庭の崩壊、社会規範の低下などで後退しています。この高度経済成長の時代はこの数年、明らかに変革しており、社会構造の変化とともに「良く生きる人間の生き方」について考えさせられます。
 
 先ほどの「悠々自適」は、一昔前の老人が縁側で猫や孫を膝に乗せているイメージが思い浮かびます。21世紀の現代、20年後には4人に一人が65歳以上の超高齢社会に突入するなかで、いつまでも膝に愛猫や孫をのせているわけにはいかないと思います。猫の方がお先に天国に逝ってしまいます。
 
 退職後、失くすものとして、定期券、名刺、肩書き、加えて収入などがありますが、夫婦の関係も微妙になってきます。定年退職では「長い間ご苦労様でした。今後お好きなようにお過ごしください」といわれるのも3ヶ月。一日中、新聞やテレビにかじりついていると、奥方のこれまでのライフパターンは壊され、顔つきも徐々に変わってくるのが通り相場なようです。これも、在職中から、折につけ良い関係をつくり、退職後もコミュニケーションを良くしておけば、問題は最小限にくいとめることができます。ボタンを掛け違うと、テレビドラマでありませんが、「定年離婚」といって、退職金の半分はもっていかれてしまうかもしれません。
 
 「悠々自適」もなかなか覚悟がいるものです。

2003年5月15日(第2回)  ハッピーリタイアーメント雑感A
「リタイアメント」について
          
 和英辞書で言葉の意味を調べると、「退職」「引退」「隠遁」と書かれています。日本語のこれらの言葉は「働くことは美徳」の日本社会ではややもすればネガティブな意味合いで受けとめられています。
 戦前の人生50年時代では、引退後からお墓までは余生といわれたほど、「余りのライフ」は長くありませんでした。21世紀の現在、20年後には4人に一人が65歳を越える超高齢化社会の到来といわれており、私の推定余命は21年、年齢81歳となっています。これから、21年間、健康にめぐまれれば更なる長生きも可能です。
 これは、おおよそ会社員時代に匹敵する、あるいは子育て時間に匹敵する長い、長い時間だと改めて実感します。

 さて、25年強前、北米駐在員時代、得意先の米国人ビジネスマンがリタイアーし暖かいフロリダでワイフとすごすことを決めました。その職場の人たちが彼を送り出す小宴会で口々に心から「私はあなたがうらやましい。」「私も出来るものなら、仕事人生にはやくけりをつけてリタイアーしたい」と現役の人たちはシャンパンで彼を祝福していました。当時私は30歳前半、現地で生まれた息子二人の養育責任感から、大層先の話だと感じると共に、豊かなアメリカ人の人生観を垣間見た思いをしました。

 私たち日本人の場合はどうでしょう。昨今の更なる企業効率化をめざし、本来のリストラの意味合いと違った人員整理が吹きまくっています。「お疲れ様でした。お元気で。」「暇があったら会社に遊びにきてください。」の声に送られ、定期券、社員章、名刺、肩書きを失くすことになるのが大方の会社員のリタイアメントです。旧知のO.B.が退職後も会社が忘れられず、のこのこと現役諸氏が多忙のなか訪れますが正面きって嫌な顔はしないものの、あとで「困った人だなー」とつぶやかれているそうです。もちろん、会社に大貢献したほんの一部の人はその限りではありませんが。会社員時代の得意先で気心の会った人や、同年輩のO.Bとの交流もありましょうがやはり、年年歳歳その関係が薄くなっていくようです。

 退職前から計画をきちんと立て、趣味やボランティアー活動、第二の仕事に目を輝かして前進されている人たちもいますが、普通一般の人たちは先ずは充電期間としょうし、城山三郎氏の小説「毎日が日曜日」の生活を送ります。「することが無い「というのが理想の生活だったが、いざ現実になると、ことのほか「虚しい」思いをすることになるようです。こう書いていきますと、男性の退職(定年)はよほど将来の人生計画をたてていないと腑抜けの人生になりかねないのではと危惧いたします。

 私はどちらかというと、楽天主義者(Causiously Optimistic 注意深い楽天主義者)でして、何とかなるわい、でこれまで通してきたように思います。実際それなりに家庭生活、会社生活は充実したライフを送ってきたのではと内心思っています。人生の大きな転機は、学校の卒業、就職、結婚、[人によっては離婚]、とありますが、この(定年)退職は大きな転機だといえましょう。ハッピーリタイアメントを送れるか、それともアンハッピーになるかは今後の思考、行動が大きく影響するでしょう。次回、引き続き考えていきたいと思います。


2003年5月10日(第1回)  ハッピーリタイアーメント雑感-私の海外への思い入れ

     昨年始めに、貿易商社を59歳になる前にマニラ駐在を
     最後に退職しました。。
     会社から、退職前に子会社の責任者ポストを用意されましたが、
     私の意に沿わないことが分かり、辞退しました。

     中学時代に当時、流行だした海外青少年とのペンフレンド交流に
     興味を抱き、毎月発行される「ペンパル」誌の外国風景や人々の
     写真入表紙に心を躍らせたのも、ついこのあいだの様に思い
     だされます。
     丸坊主頭の写真と下手な英文手紙をドイツ在の少女に郵送し、
     待ちに待った彼女からの手紙には「あなたは囚人なの?」
     との返事で大いに落胆しました。むべなるかな東洋人の
     いがくり頭はそれにしか見えなかったのでありましょう。
     それにもめげず、彼女との文通は高校生まで続きました。
     ときには、オランダやカナダの女性とも文通していました。
     
     あれから45年、私の英語力は一向に上達のあとは
     見えず、今はフィリピンで語尾が変にあがる悩ましい英語で
     ハッピーリタイアメントを楽しもうとしています。
     当地での、リタイアーメントライフは始まったばかりです。
     これから、思いつくままにアップしますので、よろしく
     お願いいたします。

     
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